村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」
あさっての博多出張準備をしている。
MacBookにADコンバータ「EDIROL FA-101」を接続し、直接HDD録音できる環境をセッティングしているのだ。
ところでここ数年、村上春樹の本を何作か読んできたんだけど、つい最近読んだ「ねじまき鳥クロニクル」についての感想。


彼の書く本は、そのどれもがとても平易で読みやすく、どんどんページが進む。だが不思議なことに、ページはどんどんめくられていくのに、そこに書かれているストーリーはというと、一向に前へ進んでいかない。
問題が発生してもなにも解決しないし、主人公は解決しようと努力を試みたりあれこれと検討したりしてはいるが、それが直接的な問題解決には結びつかない。
こう言うととても不毛な本だと思えてしまうが、それでもどんどんページをめくらせてしまう村上春樹の文章技巧はすごいものだ。
でも読後感はすっきりしないし、読み終わった後の心地よい疲れのようなものもない。それでも村上春樹の本を手にとってしまうこの魅力はなんだろう。
彼の描く、こうした「前へ進んでいかない感じ」というのは、ぼくらが普段感じている現実感そのものなのではないか。
月9ドラマや大仰なハリウッド映画のように、主人公は次々と困難に立ち向かい、脇役たちを巻き込んだり助けを借りたり、「正義」と「悪」に分かれて戦いあったりして、ストーリーはどんどん前へ進んでいくが、現実はそうじゃない。(ぼくの場合はそうじゃない。)
ぼくらの生きている現実世界でも「問題」は次々と沸き起こるけど、そうした問題はすっきり解決、というケースはほとんどない。「問題」の根源である「悪」が倒されたので、ぼくはその後「幸せ」に暮らしましたとさ、ということは現実では起きないのだ。
だって、普通に暮らしている庶民に降りかかる問題の多くといったら「人間関係」に起因するものばかりだろう。
そういう人間と人間のトラブルでの「悪が倒される」というのは誰かが死んでいなくなるということ? 誰かが死んだから解決、という解決方法は殺人の正当化だ。(でも二国間のトラブル解決方法である戦争というのは、まさしくそれなんだよね。)
この「ねじまき鳥クロニクル」で村上春樹は、人間社会において過去からずっと続いている暴力、とくに巨大な暴力=戦争について、その背後にある何か、人間を暴力行為に駆り立てる何か、これは一体なんなのかを、掘り進めようと努力しているように思えた。
いなくなった猫探し、失踪した妻捜し、という、一見するとチープな問題にぶつかった主人公「僕」のストーリーと平行して、ノモンハンや満州・ソ連での虐殺行為や戦争という暴力についての描写にかなりのページを割いていたのは、きっとそれは「暴力とはなにか」について村上春樹が真剣に考えたかったからなのかもしれない。
それらの暴力のおかげでなにか問題が解決したかというと、そんなことはなく、ストーリーもぜんぜん前へ進んでいかない。これが現実世界だ、というふうに。
(びんかん)
2007.05.22 | Comments(0) | 未分類






